ラリックは、
当時圧倒的な人気だった
女優サラ・ベルナールが舞台で使用する
装身具やジュエリーの制作依頼を受け、
その後ひいきにされることになり、
パリの社交界や演劇界への扉が開かれました。
そして、
アール・ヌーヴォーの流行の頂点だった
1900年のパリ万国博覧会では、
出展したラリックの宝飾作品がグランプリに輝き、
アール・ヌーヴォー作家としての名声を得ました。
ラリックの作品は
各国の美術館が競って買い上げるほどでした。
このとき、ラリックは40歳。
しかし、1900年のパリ万博を頂点として、
アール・ヌーボー様式は急速に衰退してしまいます。
理由は、
ファッションの流行が
ボリュームのあるふくよかな服装から
シンプルなラインを強調するスタイルに移ったため、
派手な装飾がある宝飾品が
売れなくなったからといわれています。
実際に1905年頃を境にして
ラリックのジュエリーは人気凋落が著しく、
評論家たちは手のひらを返したように
ラリック作品に
「陳腐」「悪趣味」といった悪評を浴びせかけていました。
流行は「アール・デコ」へ移行します。
ラリックにとっては大打撃ですよね。
そこで彼は
新しい表現を模索し、
宝石にかわってガラスを使用する
新しいジュエリーを制作し始めたんです。
1907年に、香水王フランソワ・コティより、
コティ社の香水瓶に貼る
ラベルデザインを依頼されますが、
ラリックは香水瓶のデザインも提案して採用され、
そのボトルデザインは大人気となります。
これを機に、
ラリックはジュエリー作家としてのキャリアと決別し、
ガラス作品の制作を集中して行い、
ガラス作家として活躍を始めました。
1925年のパリ万博
通称アール・デコ展では
ラリックがガラス部門の責任者を務め、
自社のパビリオンも展開しました。
さらに、
高さ5メートルにもなるガラスの噴水塔を出展し、
当時の新しい技術である
電気照明で噴水とガラスを輝かせ、
人々を魅了しました。
65歳のラリックは、
アール・デコのガラス工芸作家としての地位を確立し、
第二の成功を収めました。
いかがでしょうか?
ラリックの人生。
しなやかに
(靭やか、撓やか)
生きていると思いませんか?
時代の波に流されても
そこから活路を変え
チャンスを掴み、
チャンスを最大限に活かす!!
チャンスの女神は
前髪しかないのだから。
私は
時代とともに
しなやかに生きていきたいと
思っていますが、
まだまだです(笑)
というよりも
願わくば
時代の少し先を創造したいです。
あっ、今度、
アート思考からビジネス脳を開花させるセミナーします。
(仮名)
また
ご案内させて頂きます。
あなたはいかがですか?
しなやかにタフに生きていますか?
教えてください✨
知りたいです❣️
コメント
お待ちしております(⌒▽⌒)
あっ、最後にセミナーのご案内です。
ぜひ、あなたにもご参加して頂きたいです✨
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